其の368:ほろ苦い青春「ラスト・ショー」

 今回は「古代少女ドグちゃん」・・・ではなくて(笑)、アメリカン・ニューシネマの1本「ラスト・ショー」(’71)ざんす^^。モノクロ作品だけど、そんなに古い映画ではありまへん(苦笑)!先日、大学時代以来見直したんだけど・・・いや〜、ほろ苦い!寂しい青春・・・この感触こそ現在の作品では味わえないニューシネマならでは。登場人物たちが感じている<閉塞感>は現在の日本人にも大いに共通していると思う。


 1950年代初頭、テキサスの古びた小さな田舎町。高校生のサニー(=ティモシー・ボトムズ)とデュエーン(=ジェフ・ブリッジス)は特に目的もなくサム(=ベン・ジョンソン)が経営しているビリヤード場や食堂、映画館でたむろする毎日。デュエーンは学校一の美少女(で家は金持ち)ジェイシー(=シビル・シェパード)と交際していたが、次第に彼女は初体験を早く済ませたい願望が強くなり、デュエーンに物足りなさを感じていく。そんなある日、ひょんなことからサニーはバスケットコーチの妻ルース(=クロリス・リーチマン)と関係を持ってしまい・・・。

 ラリー・マクマートリーの同名原作小説(原題「The Last Picture Show」)の映画化。監督はピーター・ボグダノヴィッチ(マクマートリーと共に共同脚本も兼務)。ボグダノヴィッチはオフブロードウェイの演出家を経て映画評論家としてのキャリアをスタート。評論家時代には「西部劇の神様」ジョン・フォードに質問攻めして怒られたという逸話を持つ(笑)。1968年、かのロジャー・コーマンプロデュースで実際の事件を題材にした「殺人者はライフルを持っている!」で監督デビュー。「金星怪獣の襲撃」(爆笑)を経て監督3作目が今作。前作が前作だけに相当頑張ったと思う(笑)。

 上記のあらすじからも分かる通り<人妻と関係を持つ主人公>という設定はダスティン・ホフマン主演の名作「卒業」(’67)を彷彿させるし、後半にはデュエーンとジェイシーの間にサニーが絡み<2人の男と1人の女>になる状況は映画ファンなら「突然炎のごとく」(’61:フランソワ・トリュフォー)を想起するだろう。原作にもあるエピソードだとは思うが・・・ボグダノヴィッチもある程度は意識していただろうと筆者は推察する(違ってたらゴメンね^^)。

 
 製作に際してボグちゃんが一番苦労したのは本人曰く<キャスティング>。イメージ通りの俳優を見つけるべくアチコチ探し回ったのだそうな。後に「タクシードライバー」にも出演するシビル・シェパード(モデル出身)は、彼が雑誌の表紙になっていた彼女を見てのチョイス。今作で映画デビューしたシェパード(一瞬だが「ヌード・パーティー」のシーンで乳見せあり)は、これがきっかけでボグちゃんと結婚したのだから(→後に離婚)ボグちゃんは一番いい思いしたと思う(笑)。
 またサム・ペキンパーの諸作品や「デリンジャー」(’73)で知られる<スプリンターではない>ベン・ジョンソンは当初、ボグちゃんの出演依頼を拒否。理由は「台詞が多すぎる」からだって(爆笑:子供か)。そこをボグちゃんが「この役を演ればオスカーが獲れる!」と半ば強引に口説いて出させたら・・・第44回アカデミー助演男優賞に輝いたのは「嘘のような本当の話」である(クロリス・リーチマンも助演女優賞獲得)。

 
 ロケは原作者マクマートリーの出身地で敢行。自伝的作品なので「小説のイメージ通りの街並み」ということでの選択だったが、この撮影隊を地元の人たちは快く思わなかったようだ。あらすじにも書いた通り、50年代当時のこの町では不倫やヌード・パーティー(まぁ、乱交ですな)、同性愛(→実は旦那であるバスケコーチがゲイだったため奥さんが主人公との情事に走る)が実際に行われていたため、それが映画によって白日の下にさらされることを懸念したためだったという(作中でもさんざん「こんな町!」と貶されてるし)。日本の「津山三十人殺し」事件でも、凶行の要因のひとつになった「夜這い」に関して村人たちは徹底的にその存在を否定したというから・・・国や人種が違えどもアンモラルな行為の発覚を避けたいという人情はどこも同じだということですな。以前までのハリウッドだったら絶対NGだっただろうが、「ニューシネマ」の時代だからこそ映画化できた題材ともいえよう。

 タイトルの「ラスト・ショー」は・・・最後の最後(→主人公たちが高校卒業後、どのような道を歩むのかは見てのお楽しみ)小さな町も時代の波にさらされ、サムの映画館閉館日の<最終上映>を意味している。そこで映写されるのはジョン・ウェイン主演、ハワード・ホークス監督の傑作西部劇「赤い河」(’48)・・・。この映画の内容と衰退の一途を辿る町の対比。う〜ん、深い・・・!


 最後の主人公の姿もねぇ・・・いや〜、切ないわ。10代後半の人が観ても分からないかも知れないけど、大台(40代)にのった現在の筆者の胸には響きました(ボグダノヴィッチがアカデミーの監督賞にノミネートされたのも納得)。ボグちゃんもこの後、オニール親子を起用して「ペーパー・ムーン」(’73)を監督したり公私ともに絶好調だったのだけど、いかんせん後が続かなかった(涙)!
 「ニッケル・オデオン」(’76)、「ニューヨークの恋人たち」(’81)と興行的失敗が続くわ、ドロシー・ストラッテン(元プレイメイト)と恋仲になるも彼女が元彼に惨殺されてしまったり(まるでロマン・ポランスキー!)・・・彼の後年を知っていると「ラスト・ショー」の刹那さは倍増するかもしれない(しないか)。

 ついでに書くと・・・ボグちゃんが主要キャストを集めて作った続編「ラスト・ショー2」は・・・本人的には「夢よ再び」、「これで再起するぞ!」と考えたのだろうが・・・筆者は死ぬまで観ることはないだろう(「アメリカン・グラフィティ2」とか「48時間2」とか、傑作の後に安易な続編を作ってはあかんやろ)。

 
 <どうでもいい追記>この映画が作られた1971年は「ダーティハリー」と「フレンチ・コネクション」が作られて「刑事もの」の歴史を変えた映画史に残る年でもあるのだが、この他にも「時計じかけのオレンジ」、「ベニスに死す」が作られ<暴力と性描写の開放>が進んだ年でもある。映画ファンにとって「1971年」は重要な年であったことを再確認したぜ(ちなみにこの年、日米で一番ヒットしたのは「ある愛の詩」。これもどうでもいい続編が作られたな:苦笑)。