其の236:今夜はハードコア「ディープ・スロート」

 その昔からクリエイターと当局の間では「芸術か猥褻か」を巡る攻防が繰り広げられてきた。過去に「チャタレイ裁判」とか「愛のコリーダ裁判」とかありましたな(若い人でもインテリなら聞いたことある筈)。勿論、このような「論争・裁判沙汰」は日本だけのお話ではなく、海の向こうアメリカでもありました。72年に公開されたハードコア・ポルノ(=本番あり)「ディープ・スロート」がそれである。そして、その一連の顛末を描いたドキュメンタリーが「インサイド・ディープ・スロート」(’05)。筆者は世代的に「ブルーフィルム」や「洋ピン」を観た世代ではないのだが(笑:「にっかつロマンポルノ」も終盤に入ってたしね)このブログは「作り手側から観た面白い映画紹介」、「コアな映画ファン以外に知られていない映画紹介」のほか「映画史の紹介」も兼ねている(ニューシネマやマカロニについては解説済)。なので今回は簡単ながら「ポルノ史」について書きますわ^^


 映画「ディープ・スロート」のお話はといいますと、不感症のヒロインがその原因を調べたら、なんとクリトリスが本来の場所ではなく喉の奥にあった事が判明して(なんちゅー設定だ)、診察した巨根の医者のほかデカいのしゃぶりまくって快感を得るという「艶笑コメディ」。60分ちょいの小品である。「にっかつロマンポルノ」と違って大したストーリーはない。色狂いの変態的人物たちがヤリまくるだけ(苦笑)。物語の前半で早々にクリちゃんが喉にあるネタを割ってしまうので、後半の展開がダルい。もう少し脚本を工夫すれば良かったのに。プレイ自体も現在の視点で観れば大した事ない。ただ当時はいきなり「裏ビデオ」見せられたようなもんでびっくりしたんでしょうね(ちなみに巨乳映画の帝王ラス・メイヤーの作品は全て本番のない「ソフトコア」。その為、ハードコアが主流になるとメイヤーは駆逐されてしまった)。


 歴史を遡ってみると写真機同様、映画のカメラが発明された当時からポルノ・ムービーは<密かに>撮られていました(通称「ブルー・フィルム」。カメラが作られた時点で撮影されるものといえば「綺麗な風景」に「女の裸」と相場は決まってる)。ただ当時のアメリカは規制が厳しく(宗教的な面も存在)、ポルノなどは当然、ご法度!それが「セックス革命」が叫ばれるようになった60年代後半からの風潮の中(ベトナム戦争公民権運動でゴタゴタしていた)「ディープ・スロート」は誕生した(最初の劇場用長編ハードコアは70年の「Mona」と言われる)。


 監督・脚本はジェラルド・ダミアーノ(イタリア系)。「ディープ〜」製作以前は夫婦で美容院を営む映画ファン。つまり「素人」(笑)。店で客の奥様たちとトークしている時に、夫婦生活で満足していない人が多い事を気にかけ「夫婦仲を良くするために何か映画を作ろう」と考えたのがきっかけだったそうな。そうこうしている時に、あるスタッフの奥さんが「おしゃぶりがうまい」との話題が出てダミアーノが今作の企画を思いつく。で、その奥さんーリンダ・ラブレイスをヒロインに起用。友人たちと資金を出しあい(=超低予算)、スタッフ、キャスト全て「素人集団」による撮影が開始された。この時「時代を変えよう」とか、「革命を起こそう」なんて大そうな事は誰も考えてない(笑)!


 ヒロインの相手役にはアソコが<ビッグ・マグナム>で知られるハリー・リームズ(「ブギーナイツ」の主人公のモデル。のちに東映製作のポルノにも出演)!この人、「ディープ〜」製作当時は照明さんだったんだけど、その前は売れない舞台俳優で生活のためにブルー・フィルムに出て食いつないでいた。ところが当初起用された俳優がまるでダメで(=素人)急遽、現場で「俳優」として雇われたそうだ。唯一、「演技」が出来る人だったわけである。撮影が終わるとダミアーノは「女性の絶頂表現」として「鐘を鳴らすからくり人形」、「ロケットの発射」、「花火」等を編集でインサート(しかもめちゃ早いカット)!これがベタ過ぎて、マジでウケる^^


 いざ映画が公開されると(誰もが予想しなかった)大、大、大ヒット!「低俗」だと批判されたもののハリウッド俳優たちやJFKの奥さん・ジャクリーンまで観に行った事が更に拍車をかけ「社会現象」になった(後年の「カリギュラ」同様、なんと言われようが「エロ」は売れる:笑)。一般映画に交じって73年度の興行成績で11位にランキング!ところが「モラルの維持」を掲げる政府(大統領はニクソン)の手によって関係者は一斉に逮捕される(「猥褻罪」。FBIまで介入した)。後の詳細は「インサイド・ディープ・スロート」を観て欲しいのだが結果、出演者や関係者はその後の人生を大きく狂わされる事となる(後にニクソンは「ウォーターゲート事件」で失脚。この時の情報源が謎の人物「ディープ・スロート」!近年、その正体が当時のFBIの副長官だった事が明らかになった)。「コロンブスの卵」ではないが、何でも最初にやるというのは大変な事なのだ!


 「インサイド〜」を手掛けた監督のひとりランディ・バルバートは「(監督を引き受けて)初めて「ディープ〜」を観たんだけど、退屈でさぁ。最後まで観れなかった」と告白しているが(こらこら:笑)、筆者が敬愛して止まない某著名映画評論家先生曰く「ダミアーノがその才能を発揮するのは「ディープ〜」の大ヒットによって、より多くの予算と機会を得たその後の作品なのだ。この映画にはそれに関する言及が全くない。」・・・「映画監督」について語る場合、その人物の諸作品を観た上で「傾向や特徴」を論じないと片手落ちの感は否めないだろう。ただ「インサイド〜」は当時を知らない人が観る分には口当たりが良く、さほど悪い出来ではない(傑出した出来でもないが)。ダミアーノ自身も「(作品には)十分に満足だよ。当時の状況をかなり忠実に表現している。」とコメントしているので・・・本人がいいなら、まぁいいか(笑)。「ディープ・スロート」は(出来はともかく)「世界映画史」、更には「アメリ近現代史」を語る上で欠く事の出来ない映画として後世に伝えられるだろう。


 どんな分野でもそうだと思うがー最初は「稚拙」だった表現や行為が、徐々に「よりリアルに」、「より過激に」、「よりスケールアップ」してゆくものだと思うし、それは避けられない事だろう(それを「成熟」と捉えるかどうかはまた別の次元の話になるが)。そういった意味では「ディープ・スロート」は、<性そのもの>を語る事がタブー視されていた中、作られるべくして作られた作品だと筆者は考える。ダミアーノがやらずともいつかはどこかの国の誰かが作っただろう。ダミアーノらスタッフは後に「ハリウッドとポルノの融合(=性がきちんと作中、表現されるの意)」を目指していたようだが・・・ご存知の通り、それは<夢>で終わった(=安易に撮影、編集できる「ビデオ」の登場&台頭がその原因)。メディアの「性表現」は人間の本質を描く表現手段のひとつではなく、単に性欲を増長&処理する道具として、劇中に登場する人の言葉を借りるなら・・・「地に堕ちた」。


 「性」が「売れる商品」として蔓延し躍らされている現在(性犯罪は毎日のように報道されている)、次に人間はなにを「売れる商品」として安易に「切り売り」していくのだろうか・・・?