其の194:社会人こそ観ろ!「イージー・ライダー」

 アメリカン・ニューシネマを代表する1本「イージー・ライダー」。傑作である。ケネディ暗殺事件やベトナム戦争を背景に起こった文化的暴動、いわゆる<カウンター・カルチャー(=対抗文化)>を描いた作品であり、すぐれた青春映画でもある(ジャック・ニコルソン出世作でもあり)。
だが、近日見直してみたところ・・・これは当時毛嫌いされた大人(「30歳以上は信じるな!」)がいまこそ見直す映画である事に気付いた!筆者の意見は後にするとして、このブログのパターンである<あらすじ紹介>にいこうと思う(笑)!


 「キャプテン・アメリカ」ことワイアット(ピーター・フォンダ)とビリー(デニス・ホッパー)がメキシコでコカインを購入するところから映画は始まる。続いてロス空港の滑走路脇でこれを売りさばき大金をつかむ。こうして2人は真の自由を求めて、目指すはフロリダ!バイクでアメリカを西から東に横断する旅に出るのだが・・・。


 いわゆる「ロード・ムービー」だが、伝説的名作とあってこの映画の薀蓄には事欠かない。女癖の悪い父ヘンリー・フォンダ(でもジョン・フォード映画の常連)を憎んだものの同じ俳優の道を進んだ(でもB級の)息子ピーター(姉は「バーバレラ」のジェーン・フォンダ。娘はブリジット・フォンダ)と、ハリウッドで干されていたホッパーが一念発起して製作したのが今作である(「製作」はピーター、「監督」がホッパー。2人のアイデアをまとめ脚色したのが「キャンディ」、「博士の異常な愛情」のテリー・サザーン)。
 「監督」としては素人だったホッパーが編集もしたので(一部は撮影も担当)当時のハリウッド映画では許されなかった「逆光の多用」や「ジャンプカット(=動きの途中をはしょる)」さらには「フラッシュ・フォワード(=時間軸として先にあたる部分の映像を入れ込む)」までありとあらゆる技法が駆使されている。

 そんな斬新な映像(フランスでは既に「勝手にしやがれ」ほかで「ヌーベルヴァーグ(新しい波)」が始まっていた。この当時のハリウッド映画は世界的にみて時代遅れだった)をバックにステッペンウルフ、ザ・バンドジミ・ヘンドリックスらのロック・ナンバーが全編に流れる!これでしびれない若者はいないだろう。大ヒットしたのも頷ける。


 本編ではカットされたのだが、ワイアット(父ヘンリーが演じた「荒野の決闘」のワイアット・アープからの引用)とビリーは実は<スタント・ショーのバイク乗り>。あこぎなマネージャーに激怒して仕事を辞めた、という設定なのだ。彼らは「学生」ではなく「社会人」だったのである。でもって「脱サラ組」!彼らは時計を捨てて荒野へ走り出す。完全なる社会からの<ドロップ・アウト>だ(これがタイトルの意味)。
 過酷な職場環境や人間関係に嫌気がさして「もう辞めてやる!」と思ったサラリーマン(実行した人も含めて)はそれこそごまんと居るだろう。「金をもって時間を気にせず、憧れの地に向けて自由きままな旅に出る」・・・これぞサラリーマン諸氏の究極の夢ではないか(筆者的には学生は金はないけど、時間はあるので除外。ごめんね)。


 だが、勿論「現実」はそうは問屋が卸さない。金はいつか尽きるし、世間体もあれば家族の問題もある。将来も不安だ(=だから大多数が「転職」はしても「ドロップ・アウト」まではしない)。
ニューシネマの主人公たちもそれは全く同じ。主人公の2人は「ヒッピー」というだけで宿に泊めて貰えず(金はあるのに!)、はたまた警察に捕まったりもする。で、おまけにラストは・・・あの結果だ(ネタバレになるので書かないけど)。理不尽の極みとしかいいようがない。


 ニューシネマの主人公のほとんどは「現実」に押しつぶされて最期を迎えるのが「お約束」だった。「俺たちに明日はない」しかり「真夜中のカーボーイ」しかり。これが当時の観客たちには現実を見るようで・・・<リアル>だった。それが次第に飽きられて「夢よもう一度」というわけで、かの「ロッキー」が登場して大ヒット・・・というのがアメリカ映画史的な流れになるのだけど、かといってニューシネマが「時代の遺物」になったかといえばそうではないだろう。


 将来が見えにくくなったいまの日本社会に加えて、年功序列が崩壊してもなお、威張り散らす職場のバカ上司たちが存在する限り・・・映画「イージー・ライダー」は当時の見方とは趣きを変え<社会人の永遠の憧れ>として、これからも語り継がれてゆくだろう・・・と筆者は思うのだが、さて?